昭和五十七年一月二十八日 朝の御理解


x御理解第六十八節
 「神参りをするに、雨が降るから風が吹くからえらいと思うてはならぬ。その辛抱こそ身に徳を受ける修行じゃ。如何に有難そうに心経や大払祓いを上げても、心に真がなければ神に嘘言を言うも同然じゃ。拍手も無理に大きな音をさせるには及ばぬ。小さい音でも神には聞こえる。拝むにも大声をしたり節をつけたりせぬでも、人にものを言う通りにおがめ」


 昨日は築水信徒会が合楽教会で持たれました。皆さんも参加されたと思いますが、私のお話を聞いてもらったわけですが、お話を終わってから下へ降りてまいりましたら、家内が今日のお話は大変難しいお話を、あんなにわかり易く説いて頂いたから、皆さんがわかったでしょう、と言うふうに言うんです。う~ん、そうだなあ、今日のお話は確かに難しいお話であった。合楽では、あれを日常茶飯事というか、頂いておる内容の御理解ですけれども、ただおたげを頂きたい、めぐりのお取り払いを頂く為に一生懸命信心しておる、という人達にとっては、もう本当に、まあ、いうならばびっくりする様なお話だったと思うんですけれども、ほ-、も、びっくりするほどのものは与えたかどうかわからんにしても、それがあまりに、あの、わかりやすう説いてありますから、わかる事はわかるけれども、実際その、信心に取り組む、いうなら次元の違った世界をね、私は説いたと思うんです。
 安武先生がお知らせ頂いたという今までは、いうならば、めぐりのお取り払いを頂きたい、そしておかげを頂きたいという教えを受けて来たのだけれども、最近では、合楽教会でそのめぐりを頂くという信心、いうならば「神と仲良うする信心ぞ」という事は「めぐりと仲良うする信心ぞ」とも言えるのだ、と。いわゆる合楽世界顕現には、もう絶対ここでなからなければ、その合楽世界は生まれて来ないんです、ね。普通がただおかげを頂きたい、いうならめぐりが深い、為にその、因縁を取り払うて、因縁を消す為の信心とでもいうかね、めぐりのお取り払いを頂く為に一生懸命おかげ頂きたい、おかげ頂きたい、と言うてお願いをする信心から、そのめぐりを頂くという信心ね、そのめぐりのおかげで信心ができます、とこういう事になるわけですけども、そこにわね、結局、肉眼をおいて心眼を開けと仰せられます様に、心の眼を開かないとなかなか頂けません。苦しい事は苦しい。早くその苦しい中から逃れ出たい、逃れ出たいとこういう、ま、いうならば頂く、おかげを頂くという信心から、ま、受ける信心とでも申しましょうかね、どうぞどうぞと言って頂く、どうぞ下さいと言うて頂く信心から、もうこちらが、いうなら、昨日の御理解で言うと、ひとりでに物がでける様なおかげ、だから合楽の場合は、ひとりでに物がでけておる様なおかげの状態だから、もう兎に角、私の話を聞いてもらうよりか見てもらった方が早わかりする、というような意味の事を昨日、ま、私のお話の中に話した事でしたけれども、あれは、まあ、いうならば大変な難しい話を、いうならば、わかる事は誰でもわかる様に、ま、家内が申します様に、大変な難しいお話を、あんなにわかりやすう話されたから皆がわかったでしょうと。わかっただけではおかげは受けられんね、例えば、今日の御理解の、から感じます事でもですね、「雨が降るから風が吹くからえらいと思うてはならぬ。その辛抱こそ身に徳を受ける修行じゃ」とこうおっしゃる、ね。合楽の場合は、も、雨そのものが有難いんだ、と。その風そのものが、いよいよ人間氏子をより鍛えて下さろうとする、お徳を下さろうとする、も、神愛の現れなのだから、即有難く頂けよ、と言うのが合楽理念ですよね。だから雨が降るから、風が吹くからという時にはかえって、こう勇ましいというか、生き生きとした心がかえってうまれる。受けて立とうというその心が生まれてき、ありますからね。
 改めて私共がわからせて頂く事は、確かに次元の違った世界、いうならば本当に信心させて頂いておる者の値打ちというものはね、信心のない人達が一切の事柄を肉眼で見て、感じたり思ったりしておるのでしょうけども、信心させて頂く者は信心の眼を持って見る。と、例えば難儀であるとか、困ったとかね、様々な問題そのものがね、難儀ではないのである、ね。いわゆる神愛の現れとして、それがわからして頂けれる様になった時に、私は次元の違った世界に住む事がでけ、次元の違ったおかげが受けられる。いわゆる、ひとりでに物がでける様なおかげとは、そういう事だと思うです、ね。
 ただ、雨が降るから風が吹くからえらいと思うてはならぬ、という普通これは一般、ま、一般論ですね。何でも辛抱が大事だと。ところが合楽の場合、そん雨が風がおかげなんだよ、と。しかも、それは特別なおかげなんだよと。もう神愛の現れなんだよ、と説くわけです、ね。見方が違う、次元が違う。ですから、それを受ける心も生き生きとして、ああ、又この雨の中をというものでははくて、その雨そのものが有難いと受けられる。そういう生き方を合楽では、合楽理念は説くのですから、そういう信心をすっきり初めからわかるという事はでけんでしょうけれども、やっぱ、そういう気持ちになって稽古しなければならない、とおもうですね。
 昨日は、末永先生から若先生宛に手紙が来ておった。色々おかげを頂いておる事を、の内容でしたが、中に長男信太郎君が今年から、この一月から、あちらは一月からだそうですが、ね、小学校に行く事になったという。ブラジルの小学校です、ね。小さい町ですから、日本人の学校なんかないわけです。本当にあのう、初めの間は、そのう色々、まあ幼稚園的なものじゃないでしょうか。運動会やらがあって行きましてもね、その結局ブラジル語ばっかりだもんですから、ま、走りぐらするとでも、そのヨ-イドンち言うとが日本語で言わんでしょう、そいけん、ちゃあん自分だけ立っとるげなもん。で、そういう状態でしたけれども、おかげを頂いて、もうこの頃はもう、お友だちとベラベラだそうです、ね。お話が。だから学校も心配なしにやる事が出来ます。という事が、何かえら~い聞きよったら胸が熱なってね、何の為に日本人に生まれ、日本人、その、んなら日本の幼稚園に行って、日本の小学校に行ってというね、事のでけれる、いうならば末永先生がわざわざ好んで、んなら海外布教に出たかと。勿論そういう様な事やらは、もう覚悟の前ではなからなけゃでける事ではありませんけれども、結局思わせて頂くのに、こういう有難い信心をです、ね、いうならば世界全国の人にもわかってもらいたい。それはただ、この御理解に表れている様に、雨が風がしるしいと思う様なものじゃなくて、むしろ、御礼が言えれる事が本当であり、そのね、本当な事をわかって、本当な修行生になってもらいたい。それは日本人だけではない、世界万国、津々浦々の人達にも、こういう尊い信心をわかってもらいたい、という一途一念が、私は末永先生が南米行を決心した事だと思うんです、ね。いうならば、もう難儀は覚悟、いや、むしろそれに勇んでそれを受けようとする心ね、そこから、ま、いうならば言葉がわからなくても、通じなくても、いうなら外国の方が助かって行く、というわけですけれどもね、んなら二世になり、こんだ子供たちになると、いうならばね、ブラジル風でブラジルの人達に、んなら御説教でもでける様に段々なるだろう、ね。だから本当な事を頂くという事には、そういうひとつの、はまりがいるんです、ね。信心でここでは構えと言う事を申します。本当に雨が風がね、有難く見える所までの信心内容を頂く為には、やっぱ、はまらなければでけません。
 昨日、家内が申します様に、大変難しい事をわかり易く説かれたから、合楽の場合はそれを本当に、これは日々の場合だって同じ事が言える。わかり易くは説くけれども、その実というものは、いうならば次元の違った世界、それをま、いうなら合楽世界に住む為の信心、合楽世界とは神様も喜んで下さる、氏子も喜べれる、喜びあえる世界に住む事の為にね、ただ、普通一般、雨がしるしい、風がきついといった様な所を調節しなければ、それには自分自身のね、信心内容、いわゆる肉眼を開かなければそれがわからない、実感でけない、ね。そして私はそこがわかり、助かってから初めて思わせて頂く事は、こういう尊い有難い事が、この人にもあの人にもわかってもらったら、どんなに素晴らしい事になるだろうかという事にならなければ、金光大神を現すという事にも又、合楽次元活動に参画するという意欲も出て来ないと思うですね。本当の意味においてのね、まずは、自分自身がまずは肉眼を開かせて頂く事の為の信心修行がいるという事であります。
 昨日佳代先生、梶原先生の奥さん、z御祈念中に高橋定利が死んだというお知らせを頂いた、ち、次には古川威智雄先生が和賀心時代を世界に創る御神願御成就に相成ります様に、という事を、もう繰り返し、繰り返し繰り返し御祈念をしておる所を頂いた、というお届けがあったんです。だから皆さんもご承知の様に、高橋定利先生が、その、それこそ人の真似のでけん信心がでけとる事だけは間違いないけれども、自分がなかなか死にきらんわけです。だから私は梶原先生に言いました。「もう、どうでん高橋さんには死んでもらわなければ、本当のおかげは受けられん」て。いわゆる肉眼をおいて心眼を開く事はでけん。心眼を開く為には、いっちょ死ななきゃでけんて。自分を空しゅうしなきゃ出来ん。どうぞ、ああ成りますように。というて、それはもう、その事だけでもう一生懸命という、ね。まあ、人の真似の出来ん珍しい信心しとられるけれども、いうならば、ままよという心は出せるけれども死んでもままよのところまでがいってないわけです、ね。いよいよの時に、そういう度胸、これはもう、絶対高橋さんは、「そりゃもう、あんたがそげんお知らせ頂くなら、んならいよいよ死なっしゃるかしれんなあ」というて、まあ言うた事でしたけれども。
 本当は肉眼をおいて心眼を開くという事はそんなに、まあ、いうならば一生懸命にならなければ開けないと私は思うです、ね。そして願わせて頂く事はね、和賀心時代を世界万国津々浦々にね、そういう御神願が御成就に相成ります様に、その事の為の修行である、といった様な大きな信心がでける様になります、ね。どうでも、ひとつ合楽で言われておるのは普通の話ではない、ね。いうならば次元の違った世界の話、いうならば合楽世界に住まわせて頂く為の話、為にはね、信心のある者とない者の違いというものを、肉眼をおいて見る、肉眼をもって見る、又は、心眼をもって見るという、その、相違の所がね、すっきりとしてくる稽古を、いよいよさせて頂かなきゃならんと思うですね。どうぞ。